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観光地紹介
(歴史・麓武家屋敷群・ツル関連) ☆観光マップへ
| ■ 麓武家屋敷群 |
| ―いにしえの鼓動が聞こえる、歴史に、文化に、時を越えた浪漫を感じる― |
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島津氏は、肥後に対する守りと地方行政の目的から外城制度を設けました。藩内の102の外城でも規模の大きかった出水の麓の外城。現在でも出水小学校に御仮屋門が粛然と建っています。
碁盤の目のように整然と区切られた道路。玉石を積んだ風格のある武家屋敷のたたずまい。風雪を耐えた生け垣や武家門に、武の国薩摩の威厳がただよいます。屋敷内に入ると、りりしい武士があらわれそうなときめきを覚え、喧騒もどこか遠くへ押しやったように、いにしえが息づきます。薩摩の玄関口だけに、時の支配者たちは出水に大きな力をそそぎました。地頭仮屋の御仮屋門は、江戸時代初期に島津家第18代義弘が、帖佐から移築させたものといわれています。また、集められた武士も勇壮なつわものぞろいで、要衝の守りにあたりました。
■歴史探訪(麓武家屋敷群に関する詳細記事掲載)
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| ■ 薩州島津家の墓 |
島津用久は内乱を平定し四ヶ城を領し、内、出水亀ヶ城に居城し薩州家を称した。室町時代から140年間出水五万石を支配した薩州家始祖用久、二代国久、三代重久、四代忠興、五代実久、六代義虎、七代忠辰およびその一族の墓は亀ヶ城の一郭である上高城にあります。 |
| ■ 野間之関跡 |
徳川300年は固く各国との通行を禁じたが、薩摩藩は独自の封建社会により二重鎖国ともいえる厳重な取締を行った。肥後との国境にある野間之関は、薩摩第一級の番所であり、その峻厳さをもって全国に知られていました。「薩摩びと、いかにやいかに、刈萱の関もとざさぬ世とは知らずや」高山彦九郎があまりの出入国の厳しさに書き残した一文です。1600年前後に設けられた薩摩の三大関所のひとつです。 |
| ■ 山田昌巖の墓 |
| ―出水兵児育ての親― |
1629年第三代地頭として赴任してきた昌巖。勤倹尚武の徳をすすめ、産業の振興に力を注ぎ、多くの市民に慕われ、勇敢で徳を備えた出水兵児士風のもととなりました。 |
| ■ 「味噌なめて」の碑 |
| ―ユーモアと人情が伝わってくる― |

正岡子規に師事した河東碧梧桐の筆による碑です。大正12年から昭和6年かけて田畑を開いた完成記念に建てられました。 |
| ■ 特攻碑公園 |
旧海軍航空隊出水基地から南海の果てに散った若き特攻隊員たちの心境を詠んだ、阿川弘之の「雲こそわが墓標 落暉よ碑銘を飾れ」を刻んだ慰霊碑などがある、桜に囲まれた公園です。毎年桜の開花時期に合わせて「いずみ桜まつり」が開催されます。
歴史探訪:特攻碑公園のページへ |
| ■ 日本一のお地蔵様 |
大正14年、真言宗の僧侶斑目仏師によって建立された地蔵尊です。一刀彫りでは”日本一”。台座まで含めると高さ4.15mあります。交通安全、無病息災、子育てや延命などの御利益があるとされています。出水市本町の八坂神社境内にあります。 |
| ■ 紅葉城跡 |
古くは高尾野城と呼ばれ、中世から山城として地元豪族の拠点をなしていました。室町期、薩州島津家居城の一つとして初代用久から7代忠辰まで堅持されてきましたが、関ヶ原合戦以後全国統一を成し遂げた徳川幕府の一国一城令により廃城となりました。それ以後紅葉城と呼ばれるようになったと伝えられています。 |
| ■ 木牟礼城跡 |
文治2年(1186年)島津忠久が薩摩・大隅・日向三国の地頭職に任ぜられた際、家臣の本田貞親に命じて、山門院の木牟礼に築城させ島津三州支配の基礎を作りました。島津家の家臣が常駐し、守護勢力の拠点となり五代貞久まで続きました。
本田貞親は城内に竹林城を築き、ここを居住地にしたと伝えられています。 |
| ■ 鎮国山感応寺 |
建久5年(1194年)島津家初代忠久が創建し臨済宗禅の祖栄西禅師が開山した日本最古の禅寺で、島津家菩提寺として栄えたところです。
寺宝として、県指定重要文化財の十一面千手観世音菩薩像と脇立四天王像の5体の木造が所蔵されているほか、様々な文化財が保存されています。境内には、忠久、忠時、久経、忠宗、貞久の島津家5代の墓碑、五廟社が残されています。 |
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